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D's Talk session #03
saitosan
【斉藤二朗】ex-オンステージ山野
※池袋パルコの名物店だった「オンステ」。地元民として足繁く通ううちにワタシは斉藤さんと仲良くなり、関係者のような顔をして店奥まで覗くように…ようするにタチの悪
ジェスチャーズ*:"run run run"/65年全米44位。レニー・ケイ監修によるサイケ/ガレージのコンピ名盤 NUGGETS シリーズCDに収録
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さえきけんぞう*:パール兄弟で知られるミュージシャン/作詞家_インディー時代の曲に<メロウ野郎 in 津田沼 PARCO>というのがあるようだが…?
泰司くん*:オルタナ系ロックバンド、シアターブルックの佐藤タイジ/オンステージでバイトをしていた

D(以下denny):斉藤さん、山野に入ったのは何年ですか?

(以下斉藤):75年。

D:オンステは?

81年から。

D:なるほどね。戻りますけど、大学は東京農大でしたよねえ。それが何で山野へ?

農協…って名称じゃなくて、農業経済連…だったかな、まあ今のJAね。それを受けて、それと山野。

D:JAのほうは分かりますけど山野はずいぶんと飛びましたね? (笑) それってやっぱり音楽の趣味があったということ?

まあそう。学校の就職課行ってもJAなんかしかなかったからね。でも店で働きたいって気持ちがどっかにあって…。それに最後のバイトは東芝の卸し業者でやってたから。

D:まあ音楽畑にはそこそこ興味があったと。

最初ってどこら辺から聴きだしたんですか? やっぱりビーチボーイズとか?

最初は…中学の同級生にやけにレコードもっている奴がいてさ。彼ンとこで聴かせてもらったのが "I get around" のシングル。65年か。ラジオから流れてくるのは聴いていたけれどレコード盤しては初めてだったからね (笑)。その後は買うようになったけど…。

D:学生時代の友人に影響されたと…よくあるパターンですな (笑)。

あと、すごく印象に残っているのがジェスチャーズ*。<ラン ラン ラン>て知らない?

D:ジェスチャーズ? 知りませんなあ…。

日本で流行ったのよ。ミネソタのバンドでさ、後になって調べたんだけど。トラッシュメンていたじゃない、"Surfin' Bird" の。あれと同じレーベルからのリリースだったんだよね。

D:ほうほう。その手というか、やっぱりアメリカのポップスに惹かれていた?

いや、そんなことなくて何でもアリだったでしょ、誰でも。

D:GS?

いや、まだだよね。もうビートルズはもう出てきてた。

D:なるほど、そんな音楽体験と。ということは、まあ学生うちから音楽興味は持ちつつ…いざ就職の段になって農協を受けたけれど、あわよくば山野へ…音楽関係の店で働きたかった…。

そんなところ。 (笑)

D:両方受かった?

いや、面接の日時がカブって…結局銀座へ行った (笑)。

D:山野入って最初はどの部署だったんですか?

いきなり銀座山野一階レコード課 (笑)。

D:そりゃなんで?

大学ン時に俺、自転車でヨーロッパを回ってるのね、それでなんかグローバルな…そんなところを勘違いされた? (笑)

D:そりゃ勘違いだ (笑)。

店の、レコードの仕切りが会社別になっていたのをアーティスト別に並べ替えたりして…そしたらお局の女性店員に目をつけられて叱られた (笑)…。東芝やビクターの営業が毎日来てチェックしていたんだね、それ知らなくて。余計なことするなって (笑)。

D:その仕事は何年やったんですか?

二年。でも店だけじゃないよ。TBSや日テレへレコードを持って行ってた。レコード室で使う物を運ぶわけね。

D:いわば外商だ。

そうだね。それと即売…アーティストが来たら公演会場で…。クラプトンとか。

D:え、もうクラプトンの時代?

そうだよ。

(この後、うまく外タレを観る方法話で…オフレコ)

 

D:その後は…?

千葉パルコ。千葉に初めてできたパルコ。

D:そこでは何を?

何もないよね。ごく普通にレコード店の店員。パルコに入った山野楽器の…。

D:サーフィンやビーチボーイズ…。

全然。ピンクレディ売ったり (笑)。

D:何年間ですか?

四年かな…。

D:四年、何か面白いことなかったんですかね?

別に。う〜ん…そういえば少年ホームランの…。

D:ホームランズ、でしょ。

さえきけんぞう*…だっけ。

D:はいはい。

彼がまだインディーで…レコードをもってきたね。<津田沼パルコばんざい>? 、そんなタイトルの自主制作シングルだった。売ってくれって。

 

D:そろそろ「オンステージ」ですか?

そうそう、千葉の後に池パル(池袋パルコ)。81年。

D:オンステは斉藤さんからでしょ?

違う違う、できたのは74年なの。最初はジャズの店でさ。

D:輸入盤専門でしょ? ジャズの?

当時の山楽器社長のアイデアで、店を船のイメージで作った。丸窓とは舵が壁にあるような…。

D:キャビンとか船席とかいう感じ?

船内のイメージだったよね。

D:そこへ配置されて斉藤さんが来たわけね。店長は?

いなかったね。

D:じゃあ斉藤さん、6年目にして店長だ。

いや、店長っていうんじゃなくて…。パルコの下の階に国内盤店があって、あくまで池パルの山野の輸入盤部門というだけ。ふたりだけだったし。主任だね。

D:そこで、どうしたの? ジャズじゃ面白くなかったでしょ。で、自分で好きに変えていった? (笑)

そうそう (笑)。ただ好きに…っていうよりやっぱり商売だから…。時代的にAORのはしりだった。

D:その頃ですか。

<愛のコリーダ>…。客筋は〝丘サーファー〟 (笑)。

D:『なんとなくクリスタル』なんて頃だよね。

クリストファー・クロスのジャケ見てサーファーっぽい格好の女の子が買ってくれる、とか。千葉じゃ全然売れなかったソウルとか売れて驚いた、ウィスパーズとか。

D:輸入盤店、池袋の…。僕は池袋人間だからほとんど見ている記憶なんだけど、そのころのオンステはどうだったろう。東武の五番街とか西武はディスクポート…。

東光メロディアは?

D:トウコウ? ?

ディスクポートの前身。

D:それは…覚えがないなあ。覚えといえばオンステの最初は…国内盤と壁一枚で背中合わせだった時あったじゃない…。

6階から5階へ降りて小さい店で始めたんだよね。その後だね、それは。85年頃。

D:あそうなの。ドアひとつ分のスペースで国内盤のほうへ回れた…なのに途中でそれが塞がれたんだ。

そう、あれなぜ塞いだんだ? (笑)

D:CDの出始めでさ、ほとんどアナログのなかでレジ前の小さな壁スペースに飾ってあった。記憶ではそこにビートルズの "Ultra Rare Trax" が…。

ブートだね、ヤバイなあ… (笑)。

その前の小さい店ん時に結構売れたんだよね。タワーが渋谷にできて…輸入盤のLPを買うことがブームになりかかってた。渋谷にシスコがあったじゃない。あれはサントレって卸業者がやっていた店、そのサントレがどんと仕入れた盤を…買取して店に置いていた。

D:オンステの場合、斉藤さんが向こうへ行って買い付けたわけじゃないでしょ。すべて輸入業者だよね、インポーターっていうの? その特徴というか…店に必要な特徴ある盤を扱うのはどうしてたの?

最初は二箇所だけだったんだよね、でも関西に面白いインポーターを見つけて…。三つあって、おのおのが特徴あってよかった。他にカット盤はそれ専門の業者もあった。

D:オレのなかでの輸入盤は…まず中学時代のヤマハ。渋谷のヤマハへ見にいったなあ。まだ高くて手がでなかったけど。国内盤の3〜4割増し? イギリス盤なんかバカ高くて絶対買えないと思っていた。それでも年末にバーゲンがあって、どうにか¥1400〜1500になったのを買いだしたのが最初と思う。それからはぽつぽつと専門店ができてきて…上野の蓄晃堂あたりから店めぐりが始まった。芽瑠璃堂…って最初は通販のみだった、知ってます? ほかに吉祥寺のジョージア、池袋の音盤洞…新宿も

まあそれは70年代の話だけど、80年代に斉藤さんはオンステでどうやって特徴を出そうと?

普通は異動があるじゃない、チェーン店だから。でも俺はさ、輸入盤専門でしょ、その専門職とされてたからゆっくりできたよね。ずっとここだっていう…。それに身銭で仕入れている街の店とは違ってやっぱり雇われだから好きにできたっていうのは大きかった (笑)。

D:店としてイイ思いってのはどんな?

やっぱりバブルだよね、実際売れたし。

D:誰と話をしていてもバブルは…来ますなあ (笑)。

業者が海外買い付けに付き合ってくれって云ってきたり…おいしい話。

D:もちろんアゴ足も向こう持ちで?

そうそう。それでアメリカは…インディアナポリス。カット盤専門の卸業者の倉庫とかね、ウソみたいにでかい倉庫。

D:イギリスも行った、いや行けたんだ…いいね。

卸しではヴァージンとラフトレードと…あとは小売りの店ね。ただ観光客相手に値段を上げている店が多かった…ビートルズの英国盤とかは商売になるよね。

 

D:話戻るけど、店の特徴をどうやって作ってました?

特徴というより、客側もおのおのにコアになっていったよね。ダンスならダンスとか、ポップスでもアメリカ一辺倒とか…「渋谷系」なんてのも出てきて…。うちの店は社員・バイトもいたからおのおのに強い音楽持っていたし…。なんだかんだ言ってもデパートの中の店だしねえ、ボサノバ系とか…軽くてOLに受けそうなところも押さえる必要はあった。

D:なるほでねえ。

それとコアな客層相手では、ポップスにしろダンスやレゲエにしろ、戻りというか…ルーツ系、「元ネタ」か、そういうのを揃えると売れたよね。

D:オレが斉藤さんと話をするようになったのっていつだっけ? その頃かな。

バーズでしょ…。

D:バーズ? なんだっけ?

バーズのファンジンがさ…。

D:ああ、あれか (笑)。そうそう、あったなあ。アメリカのコアなバーズフリークのおっさんがひとりでシコシコと手作りファンジンやってて。『Flight Log』とか…そんな名前じゃなかったっけ。それをオレはこれまたシコシコと日本語に訳して、仲間うちに配っては喜んでた。で、店へも持ってきたんだったね…。

そのファンジンを店で売ってた… (笑)。

D:そうか、元ネタのファンジンがオンステで売ってて…「なんでここで売ってるの? 」みたいな話だったっけ。それで訳の方を持って行ったのかも。

あれ、傑作でさ…そのフリークおじさんとコンタクト持っていたんだけど、そのうちに出さなくなって。それで手紙でなぜ続けないかと聞いたら…「いまカミさんともめてて離婚寸前、バーズどころじゃねえヨ」って (笑)。

それは国内盤と背中合わせの頃だよね。他のメンバー(店員)…佐藤君、小梅さん、泰司くん*とかはその後の店、移動した店? おなじパルコのなかだってのにオンステはあっち行ったりこっちに来たり (笑)…。

あの頃がピークだったな、十坪ぐらいの店でめちゃ混みだった。酸欠状態 (笑)、マジに。

輸入盤仕事全体もその頃がピークでしょ。クアトロができた頃。WAVE クアトロ店。WAVEを集結させてドカ〜ンとやったけど…。仕入れをやりすぎたんだね、あれは。

D:店がおしゃれだったでしょ。

バブルがピークから落ち気味な頃だったけどそのまんまの「お洒落イメージ」でいってた…。まあ場所が渋谷だしバックは西武だったからね…。

それでもクアトロ店の話じゃなかった、うちの店も同様 (笑)。結局その後にバタバタと、皆が弱体していくわけでしょ。

D:ようするに時代が〝ディスク商売〟からだんだんと形態ごと変化していったと…。

そこらの話はいいの?

D:「興亡」の「亡」のほうですか。いや、景気悪い話を聞かされてもなあ。そこらは適当にまとめておきますから、そろそろお開きにしましょうよ…。 (笑)

 

 

 

 

【120527 西船橋】