D(以下denny):森田さん*から聞いておいてと言われたことなんだけど、高校の時に谷口さんは森田さんのこと、知ってました?
T(以下谷口):知ってたね。彼はジャズ研(研究会)だったね。
D:弟のノリちゃんじゃなくて?
T:じゃなくて。ボサノバだかスタンダードだか、なんかマイク持って歌っていた…よね。その頃からおじさん臭い人だったけど (笑)、森田君は。
面識はなかったけど、…私たちはアメリカ民謡同好会だったのね、で、アメ民とジャズ研が入れ替わりでライヴをやっていた部屋があって…そこで見たかな。話はしなかったけどあの弟さんのお兄さんということも分かっていたね。弟さんはTVに出てドラムをもらってきたというのは有名な話だったしね。
桜井…桜井郁雄って知ってる?
D:いや。
T:ジャズのベーシストで、いま〝4ビートの鬼〟とか言われている…。
D:そうなんですか。城北の人?
T:彼は中学から城北だから森田君のバンドのメンバーは皆知っていて、私は彼と同級だったからなんとなく間接的に森田君のことを知っていたかな。
D:谷口さんが一年のときに森田さんは三年ですよ。
T:そうかなあ、なんか歳がよくわからない人じゃない (笑)? 印象では植木等みたいだった… (笑)。
D:粕谷くん*とは…?
T:同級になったことはなかったけど、ギターの上手い…エレキギターの上手い人。城北で、森田君の弟さんバンドのギター…教頭の息子だったかな、それと桜井郁雄。その三人が上手いという印象だったよね。
D:(同席の粕谷くんへ)あれ? 粕谷くん、そうだったの?
粕谷:エヘヘ(照れ笑い)。
T:桜井君はギタリストだったけど、明治学院入ってジャズへ行って、ベーシストになって…。
D:うちの兄キや小林(恒)とかは?
T:うん、彼らはいつもツルんでいるのがすごく印象にあったね。一応アメリカ民謡同好会だったから。けれどいつのまにかいなくなっちゃって… (笑)。
D:そうなんですよ、ふたりして中退してるから (笑)。で、ともに都立高へいってるんです。
D:森田さんはオレンジ*のマネージャだったですよねえ、…最初は和重さんとか。
T:よく知ってるねえ。そう。和重はタイロン橋本くんと宇都宮の高校の同級生でね…そうだ、橋本くんも一時期はビクターのシンガーだったよね。
D:谷口さんは…どこからっていうか、オレンジカウンティはどう始まったんですか?
T:私はアメリカ民謡同好会入るくらいだから最初は歌を歌いたかったのね。で、大学入るのもバンドやることしか頭になかった。けれど、歌はまああまり上手くなかったし、ギターでもちょっと勝負できないかなと…。ならば変わった楽器という意識がどこかあったかなあ。それで法政大学へ入ってカントリーのバンドがあると知ってそれを見に行って…。カントリーレンジャーズっていう軽音楽部のカントリー部門でね、昔は花形だったけどもう時代はロックになっていて存続しているのが不思議なくらいの存在だったんだよね。で、入った年の新人は私とその後も一緒にやる安積のふたりだけだったわけ。そこで、楽器はなんでもいいからと言われて選んだのが、私がスティールで安積がフィドルだったと…。
D:なるほど。
T:ジャズのフルバンドとハワイアンとカントリーで軽音学部の楽器部屋があってさ、かなり楽器でいっぱいだったけどそこでスティールを組み立てて練習したり…。
でもその前に、高校時代にすでにガルシアが "teach your children" でスティール弾いていたし、リック・ネルソンのストーンキャニオンバンド*には…え〜と……、重要な名前なのに…誰だっけ?
D:ん? アル・パーキンス?
T:いやいや、もっと前の世代でバック・オーウェンスのバックをやっていた…トム・ブラムリーだ、この人が凄かったからネルソンのバンドはよかったんだよね。そういうのを既に聞いていたよね。
D:じゃあ、スティールといっても純粋なカントリーというよりもいわゆるロック系というか…そういう意識を持っていた?
T:純粋なカントリーって高校でも大学でも、いまでも聴いてないからね (笑)。
D:あ、そうですか (笑)。
T:ただ、ここ(成増)に米軍キャンプがあって、うちが質屋だったから洋楽のLPとかがいっぱいあったんだよね。その意味で子供心になんとなく…はあったかもね。
D:あ〜なるほど、そうですか。僕のなかではここは…光が丘団地群になる前ですよね、ここはグランドハイツという原っぱで、ひたすら草野球をやっていた場所なんですが、実際に米兵がいたっていう時期って谷口さんは見てます?
T:私が幼稚園ぐらいのころだよね。その当時うちにハンク・スノウの盤とか…プレスリーは姉が好きだったからあったね、ファッツ・ドミノとか…。当然のように小坂一也や…日本のロカビリーなんかもごっちゃに聴いていたな。
D:この成増…川越街道沿いに英語の看板を掲げていた店があったのは記憶にあるんですよね。「ハラダ」*のウェスタンシャツも原宿店だけじゃなくてここの店でも買っていたし。確実にキャンプの街でしたよね。
T:そうだね、20年ぐらい前まではかろうじてあったんだ。メインゲート前の並木道があったころ、大きなオモチャ屋があったり家具屋があったり…素敵な店が並んでいたね。
D:そうですよね、アメリカって感じが実は…あった街ですよね、成増も。
T:質屋商売とは関係なく、たまたまだったろうけど…キャンプ内の軍人家族と交流が…うちの家はあって。私は小さかったけど、姉なんかは家に同世代の女の子を呼んでレコードプレイヤーをかけたりしていたな。ダンスしたり。自分の父親もダンスできる人だったんで加わってたりしてね…。
D:モダンな家族だったわけですね〜。
T:質屋が商売だったけど、演歌って無かったウチだよね、アメリカっぽい…。
D:でもこの界隈がそんなアメリカナイズされた場所だったこと…知る人は少ないでしょうね。福生や座間とかよりも早くにキャンプが無くなったのかな?
T:そうだね。
D:いまでは「グランドハイツ」の名称すら知らない人がほとんどだろうけど…。そういえば、これは知ったのが5〜6年前のことだけど、それって本当は「グラント」…グラント将軍*の「グラントハイツ」だったんですよね?
T:そうだね。(成増の)住民も「グランドハイツ」って呼んでたけど… (笑)。
D:並木不動産というのは、成増の地元の大手というか…古くからの地元の人なんでしょ?
T:そうだね、あともうひとつ…そのふたつの地元不動産業者があって。
D:その並木不動産の…いまは社長? その人って昔山下達郎と一緒にバンドやっていた人でしょ?
T:いや、それは違うんだよね。並木家はいくつもあって、その並木さんは…造園業のほうの並木さんじゃないかなあ。不動産のほうの並木家は私、よく知っているからね。
D:あ、そうだったんですか。じゃあず〜っと勘違いしたままだった (笑)。実はその並木さんのガレージで録った山下達郎の自主制作盤LP*を、僕…いや兄キですけど、もらったんですよ、当時。ジャケを描いた金子辰也、金子くんというのが同じ鶴瀬に住んでいたから友達だったので…。
T:そうだったんだ。金子くんはウチのカミさんと同級生でさ。
D:え? 奥さんて鶴瀬の人だったんですか、初めて聞きました…。
まあその金子くんからLPをもらって、録音した場所とかいろいろ教えてもらったんですよ、当時に。で、それが並木さんのガレージと聞いて…そこから並木不動産が成増で大手なんで僕が勝手に勘違いしていたんですね。
T:お兄さんはその盤には反応しなかったでしょ? (笑)
D:そうですね (笑)。僕のほうが聴いてました。ただ僕も当時はビーチボーイズに興味はほとんどなくて…B面ばかり聴いてましたけど。
ラストショウ*のマネージャだった並木さんというのは?
T:うん、やっぱり成増なんだけど…並木家というのは大きくてまた別の地主さんだね。
D:ダサイといわれる東上線も音楽関係者を輩出しているゾ…というオチで (笑)。
(参照サイト:http://members.jcom.home.ne.jp/oka3n/page007.html)
【120516 成増/Heaven】