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D's Talk session #09 with 高木龍太
“ポップス〜GS,日本ロック”

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【高木龍太/音楽ライター_レーベル主宰】takagi ryuta
takagiface
※Denny's voice
ノイズゲートでぶち切り:80年代に大流行したドラムサウンド_UKのトレヴァー・ホーンらが多用
黒沢くん:GSを中心に日本ロック黎明期を紹介・評論した音楽ライター黒沢 進:2007年死去_リンク
オンステ:池袋パルコ内のオンステージ山野_リンク

D(以下Denny):1975年の生まれ。若い高木くん。昭和…?

T(以下高木):50年です。10月生まれなんで、日本の音楽シーンでいうと、シュガーベイブとかが活動末期の時期ぐらい…?

D:ということは80年代でもリアルタイムに入らないんじゃないの?

T:いえ、最初に買ってもらったシングルは幼稚園手前くらいかな? それはゴダイゴだったんですよ。それと子供の頃に、母親がFENを好きで聴いていて、そこでかかった曲を録ったカセット…それがよく居間で流れていて、聴いていたんです。FENは内容はさっぱり分からなかったんですけど、聴くのは僕も好きでしたね。それでその母親のカセット…(メモがなくて、曲名はあとで判明したんですけど)…のなかでも特に好きだったのが、ボー・ドナルドソン&ヘイウッズの《悲しみのヒーロー》なんです。やっぱりポップな曲が好きでしたね。そのあと、小学校に入って自分でもエアチェックを始めた…かな。で、小5くらいでビートルズに出会って、そこから同時代のブリティッシュ系の音楽、フーやヤードバーズやゾンビーズや…。

D:それらはいわば「戻り物」、同時代の音じゃなくて過去の音源じゃない。小学校から中学にかけてでしょ、その歳でもう「戻った」?

T:当時の流行りの音ですけど、ドラムの音が嫌いだったんですよ。

D:ノイズゲートでぶち切り*…あれね。

T:ええ。でもラジオでちょこちょこリアルタイムの物も聴いてましたけれど…バングルスとか、スタイル・カウンシル、スパンダー・バレエあたりのUKのヒット曲とか…。あと中学の現国の先生がブルースマニアで (笑)…、それも大きかったですね。三年間、純ブルースからソウル系まで、こっそりいろいろ聴かせて頂いたりして…。

D:へえ、そりゃコアな話だねえ。

T:その先生から、「高木、ビートルズもいいけど、いろいろな人の音楽を聴いたほうがいいよ」、と言われて…影響があったかなあ。

D:GSはどこから入っていったの?

T:ビートルズから広がるものは多くて。ルーツを辿ってR&Rとかガール・グループとか、更にもっと以前の音楽にも行けるし、中期のサウンドからはフォーク/カントリーロックとか。交友関係から70年代以降の音楽にも興味は広がったり。でもやっぱりその中で音も曲も60年代の音楽が心地良くて…たとえば同時代のアメリカはどうなっていたのかというと、ビーチボーイズ/バーズ…。じゃあ、当時の日本の音楽はどうなっていたんだろうという興味が出てきましたね。中古屋に行きだした頃でもあったし、あと80年代の後半でレトロブームっぽくもあったんですよ。なのでラジオからだけでも沢山いろいろ聴けた時代でしたね、FM番組から。

D:黒沢くん*との関係ってどこら辺で?

T:中学の時にレコード屋で黒沢さんの本を見つけたんです。それが【日本の60年代ロックのすべて】。89年でした。すごくマニアックで内容はまったく知らないことだらけだったんですけど、何かとてつもないパワーを感じて。凄い本で衝撃でしたね。前書きで…「日本の60年代はロックじゃない、それは芸能界が主導だからといわれるけれど、それならばビートルズやプレスリーはどうなんだ」…だったかな、そういう意気込みというか…。それで黒沢さんにコンタクトをとってみたくなって手紙出しました。そうしたら、年齢が年齢だったせいか面白がってくれて。

D:中学生だもんねぇ。

T:ただ実際にお会いしたのはずっと後で…十九、二十歳ごろだったかな。それまではひたすら手紙/電話/ファックスのやりとりだけで… (笑)。その間にも、黒沢さんが【GS通信】という会員制のミニコミを作ってらしたんですけど、そこに僕が送っていた手紙を…「勝手に載せちゃったからタダで送るね」ということが度々あったり (笑)。え〜!って。もうあれは死ぬほど恥ずかしい (笑)。そのミニコミへ文章を書いてみないかと言われて連載記事を書いたのが…まあ本当に稚拙な、遊びのようなものでしたけど、一番最初に人前で文章らしいものを書いたということに…なるのかなあ。それが中学時代です。 

 

T:もちろんGSばかり聴いていたわけじゃなくて、ずっと洋楽邦楽はフィフティ/フィフティくらいで聴いてきたんです。でも筆頭は洋楽…輸入盤の世界。西武線育ちだったんで池袋ディスクポート/WAVE、オンステ*…しょっちゅう通っていて、Nuggetsシリーズ買って衝撃うけたりとか。あと江古田に「おと虫」という中古と輸入盤のお店があって…。

D:あったねえ。

T:移転してまだあるんですよ。おと虫は最初学校の同級生から教えて貰ったんですけど、当時近所だったんで12、13才の頃から通っていて。そこでもバイトのお兄さんたちによくしてもらっていましたね。お茶ご馳走になりながら「今聴いてたんだけど、ザ・ムーヴっていうのがいいよ」とか…いろいろなアーティスト盤を教えてもらえたのもありがたかったですね。

D:当時はそういうちまちました情報源てのが大事だったよね。 (笑)

T:いまは YouTube とかあってどんな珍しいレコードでも聴けるし、ライヴひとつにしても、たとえばこれ昨日のグラストンベリー(・フェスティバル)の映像だよとか…、すぐに携帯映像とかで見られますものね。

D:ありきたりな物言いだけど、こうまで情報が溢れちゃうと逆に今の子らは可哀相だよね。

T:音楽は聴けなければ意味がないですし、聴けること自体はいいと思うんですけど。ただ昔は本当にタイムラグがあって、その情報が届く間にあれこれ想像する部分とかが実は重要だったり…。ずっと欲しかったレコードを買って聴けるようになるまでのその時間とか…、大事だった気もします。って、ちょっと年寄り臭い言い方ですけど。

D:歳じゃないって (笑)。…話が戻るけれど、君がライター仕事を始めるのはどういうところから?

T:それは…黒沢さんですよね。ある日突然、『レコードコレクターズ』でGS特集があるんだけれど手伝ってくれないか、とお声をかけて頂いて…。黒沢さんが縁でライターなどされるようになった方は他にもたとえば土龍団のお三方とか、ご活躍の方がいらっしゃって、僕なんかは末席の末席もいいところですけど…でもその後CDライナーとかを書くようになった、その大元のきっかけは、やはりその時に黒沢さんから頂いたんですね。99年、23才のときでした。

D:といっても君としてはべつに「GSライター」という意識ではなく…?

T:うーん、「日本のポップス」…ですかね。そこにGSも入るだろうし。元々、僕自身はライターになろうと思っていたわけではなくて。その前に高1くらいからライヴ・ハウスに出入りするようになって、自主レーベルをやりはじめてたんですよ。リリースは93年からでしたけど、本当に運良く初っ端のCDが売れたんです。インディなバンドのコンピレーションです。

D:どういう系の音? 高木くんの好きだったモッズ系とか?

T:人脈的にはそれもあったんですけど、レーベルで出してた音はフォークロック…ですね。本当は、モッズ人脈でメイベルズっていう…グリニッジ・ヴィレッジっぽい、フォーク・ブルージーなバンドがいて、凄く好きだったんです。けど解散してしまって…。でもそのバンドの周辺にファンシー・クローズというバンドがいて、彼らもメイベルズとはちょっと違ったけど、アコースティックでポップな、とてもいいバンドだったんですよ。Cherry Red や Creation(レーベル)みたいな…60年代のフォークロックに影響されたメロディアスな感じといったらいいのかな。それで、彼らの音源も出したい、と思って…、彼らと、あと2バンドに参加してもらってオムニバスEPの形でまとめたのが、最初のCDでした。でもこのファンシー・クローズもやはりその直後に解散してしまったんですけどね。どちらも幻のバンドですね。

D:渋谷系なんて頃?

T:時期的にはそんな頃でしたけど、でもバンド側にそういう意識はなかったと思います。ただ個人的には、フリッパーズ・ギターに関しては、出てきた時はやっぱり衝撃で。そういえば当時、彼らは雑誌グラビアで真ん中にべスパ置いてポーズ取っていて…スタカンに近いのかな? どこかモッズの臭いもあるのかな? 最新版のモッズ? とか思ったりして… (笑)。なにか新しい刺激がありましたね。

D:Vanda なんだけど、オレがデザインをやった…まあ最新三号ね、もう10年前だけど (笑)…そこで高木くんも書いているけど佐野さんとは何がきっかけで?

T:それも黒沢さん絡みだったんです。ある飲み会に誘われた時にそこに佐野さんもいらして…。そこで紹介して頂いてお話しているうちに、次の Vanda へ書く話に…。そこではじめて書かせて頂いたのが、昔から好きだった〝ガロ〟の結成前のことです。彼らはアコースティック・ロックを目指した人たちで、元々は日比谷野音のロック・コンサートとか、その前のGS時代とか〝ヘアー〟とか、いろいろなバックボーンがあってのガロなんですけど、人気が出たときのイメージばかりが先行してしまうのは残念でしたから。彼ら3人の元々持っていた音楽性やハーモニーは色あせず素晴らしいと思うし、そこに行き着くまでのあれこれはそんな音楽性の源だと思うし…、そこを知ればもっと面白いんじゃないかと。それであれを書かせて頂いたんです。

D:黒沢くんと佐野さんと、オレはどちらとも知り合うチャンスがあったわけなんだけど、ふたりは似ていた。前の高瀬くんとのトークセッションと被ることだけど、人が無視し続けるならオレがやるよ/オレが書くから…という立ち位置ね。ブームを仕掛けるみたいな山っ気がまったくなく純粋に好きな音楽をひたすら語る姿勢かなあ。

T:黒沢さんは…自分の好きな音楽、まあメインに出ていたのはGSですけれど、それを広い世代にしっかり伝えたいという気持ちが前面にありましたよね。そこで、GSってこういう聴き方もあるんだっていろいろな切り口を見せてくれて、新鮮でしたよね。ひたすらに、ご自分の好きな音楽の魅力を伝えようとし続けた方…でしたね。ぼくがもし、黒沢さんに教えて頂いたものがあるとすれば、そういう姿勢なのかもしれません。【日本ロック紀GS編 コンプリート】というのを、黒沢さんが亡くなった後にお手伝いさせて頂いた時に思っていたのは、必要以上に加筆はしたくなかったということなんです。あれは黒沢さんの文章、黒沢さんのGS観をしっかり残すという意味で…。そのあとはそれぞれが、自由な見方や気持ちでやればいいですよね。

 

 

 

 

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