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D's Talk session #13 with 森 勉
“6〜70年代の東京音楽事情”

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【森 勉】mori tsutomu
Petmori2
※Denny's voice
斉藤さん:D's Talk Session #03
バッドシーン:チャーの高校時代のバンド名 Ten Years After の曲名から?
ハマクラさん:浜口庫之助_作曲家として数々のヒット曲を生み出す
森田純一:_Talk sesion #01
谷口さん:谷口邦夫_Talk #05
ライヴのできる店:LOWN(ラウン)です_トップページの右帯参照
アゲイン:ペットサウンズビルB1_トップページの右帯参照

M(以下 森):奥山さんと知り合ったのは…なんでしたっけねぇ? 店に?

D(以下 Denny):え〜と…そう…でしょうね。うん、僕も何で森さんのお店を知ったかなぁ…「ペットサウンズ」の名前だけでもう〝分かる〟ということですけど (笑)…。

M:そういう意味では80年代頃のほうが反応してくれる人がコアだったように思いますね。いまではロックファンなら誰でも知っている盤になっちゃったじゃないですか、【Pet Sounds】がね。

D:そうですね。

M:80年代ではビーチボーイズ・ファンしか知らない…名盤うんぬんになる前のことでね、どちらかといえば「え〜、ビーチボーイズ…? 」みたいな…カッコ悪いバンドでしたからね (笑)。

D:だからですよ、僕が森さんの店へ伺ったのは。隠れビーチボーイズファンには話相手がいなかった (笑)。喋る相手がほしくて…森さんと知り合っていろんな事を伺ったりね。それは他には、オンステージの斉藤さん * や…え〜と飯田さん、飯田充さんもいました。最近はどうかなぁ…音楽ライターとしてけっこう書かれてた…。

M:メロディハウスの…?

D:ええ。飯田さんは最初は上野の蓄晃堂でした…。そして原宿のメロディを経て、国分寺で奥さんと一緒にフリークアレイという店をやってましたね。蓄晃堂時代からお顔は知っていたんですが実際に話をしてもらったのはフリークアレイになってから。サーフィンからサイケデリックまで、西海岸ロックにはめっちゃ詳しい飯田さんなのでビーチボーイズのこともいろいろと教わりました。当時は誰も話題にしていなかったモノ/ステレオ/デュオフォニックの違いとか…。

M:蓄晃堂のミュージックマガジンの広告を見て、みんなレコードを買いに行ったりね…。

D:いわゆる『アメリカンロックの名盤』てことを最初に始めたのは飯田さんじゃないですかねぇ。飯田さんの〝目利き〟で、ローカルでコアなアメリカンロック探しが進んだ気がしますが…。

M:レコードを買い出した頃なんだけど、自由が丘にも東光ソハラ楽器という店があった…イラストレイターの河村要助さんがレコード袋をデザインしていたモダンなお店で、当時は珍しかったんだけどレコードを棚状に、「縦入れ」していたのね。目新しいレコード屋さんができたなぁという思い、ありましたね。

D:なるほどねえ…その店は知りませんでした。

M:73年頃で、自分の好きな音楽の仕事がしたくて…その店へ働かせてくださいと行ったのね、募集もしてないのに (笑)。

D:ごり押し? (笑)

M:さすがに働くのは叶わなかったけれど店主から、レコード屋稼業は大変だぞとか (笑)、いろいろとためになる話しをしてもらえて。気になるお店で働きたい気持ちは誰でもあるでしょう? ウチなんかにもときどき来ますよ、働かせてほしいと…。

D:なるほどねぇ。森さんは…ディスクユニオンで働かれてたんですよねぇ?

M:一番最後ね。大学の卒業時、僕らの時代は学生紛争とかあったんで一般の仕事に就くのは嫌な感じを持っていて…仕事を決めないまま四年までいっちゃったんですヨ。社会科の教員免許だけ持ってたんで教育実習までしてね…大学側から私立高校の話をもらうとこまで行ったんですねぇ。けれどそれが女子校だった。

D:いいじゃないですか (笑)。

M:いや、今ならともかくその時は…ずっと共学で来ていたから女子校って分からない世界だから断っちゃった。そうしたら二度と話来なくなって… (笑)。もう好きにやるしかないとなって、音楽関係でね…いろいろな店で経験を積んだんです、将来は自分でも店をやりたい気持ちがあったんで。

D:すべてレコード店で?

M:ええ。その最後がユニオンなんです。…あれ、奥山さんからのお題は「東京の音楽シーン」でしたよね。そっちに話を進めましょうか。

D:いや、どんな進行でもOKですけど (笑)。

M:「東京」…ということで思いついた場所は三カ所なんです。馴染みの場所ですね。まずこの地元武蔵小山、生まれ育った場所です。二つ目が銀座・有楽町界隈。父の仕事場でして、寿司店をそこでやっていたんですよ。小さな店だったんですけど有楽町で二軒…僕が大学を卒業する頃まで続けてました。初めて勤めたレコード店も銀座松屋デパートの中だったんで、この界隈は思い出深いんですよね。

それで最後は、学校がずっと渋谷だったんで…エスカレーター式に行けたんでノホホンと育っちゃいました、小学校から大学まで。毎日通ってましたから、その当時の渋谷は好きな場所でした。

D:武蔵小山のお店の場所はもともとは住まわれていたんですか?

M:人に店舗として貸していたんですけど、老朽化で建て替えの時に…僕も三十ぐらいになって店を始めたかったこともあって入ったんです。店ということでは恵まれた環境でしたね。

D:なるほどなるほど。え〜と東京の話をとお願いしたのは、僕は板橋の生まれで10才で埼玉に越してますが遊び場所としてずっと東京なんですね。東武東上線沿線で二十歳過ぎまで来ましたから、人には「池袋人間」と言ってます (笑)。まぁ何にしろ東京のあちこちで音楽に触れていました。それって地方住まいだった人にはちょっと分かりにくい…やはりロックな「現場」というか、東京ならではのメリット/アドバンテージはあったと思うんです。そこらをこのトークで少しでも聞かせてほしく…特に森さんには僕の知らない60年代を教えてもらいたいと思ったわけです。

M:僕にとっては、小さいときの記憶では池袋というはここからすごく遠いところという… (笑)。

D:そうでしょうね、分かります。僕にとっては逆で東京でも南、「城南地区」は凄く遠いというか、渋谷から先は〝オレたちのテリトリーじゃない場所〟と…正直思ってましたから (笑)。

M:城南と城北ですね。

D:そうです。僕らは城北地区でしたから。そういう東京のローカル性…というのも変かな、でも東京ロックの初期=70年前後って東京の中に片やこんなバンドがあるとかどこそこには凄いギタリストがいて…そういう仲間ウチの噂とかがありましたよね。学祭へ行ったら凄いバンドを見たとか。…四人囃子はデビュー前から噂でした、杉並のほうのバカテク学生バンド。高中(正義)だってエスケープの時にすでにうまいギタリストとしてかなり知られてませんでした? で、城南の星はチャーだったでしょ (笑)。バッドシーン * は…高校時代?

M:『ニューミュージックマガジン』に紹介されたんですよね、高校の時に。マガジンのなかでそういうアマチュアも、小さな記事かもしれないけれどちょこちょこと出てましたね。そこから、たとえ写真が載ってなくてもバンド名だけでも気になったからライブハウスへ見に行ってみたとか、ありましたね。 

D:そうですね。前にお聴かせしたハート・オブ・サタデイ・ナイトを覚えてます? このバンド、ベースが湯川トーベンさんでした。

M:アマチュア時代?

D:いや、このバンド前にトーベンさんは神無月というバンドでデビューしていて、解散してハート・オブ・サタデイ・ナイトになったんです。兄キがどこかで観たんですね。僕に…とにかくカッコいいし、特にベース(湯川さん)がバカテクで凄かったと聞かされました。それで僕も観に行ったんですが、一発で気に入りました。当時としてはマイナーな? …シュガーベイブ/愛奴と並ぶようなアメリカ的ポップス志向。結局このバンドではレコードは1枚も出なかったんですが、僕は日立ローディプラザという場所での音源をいまでも持ってます。

M:当時そういう、名前で気になるバンドがいろいろあったんですね。

D:ええ。ミッドナイト・クルーザーとかプリフライトとかマーブルヘッド・メッセンジャーなんてね。趣味志向が分かるよなぁという感じでしたね。

M:ボブズ・フィッシュ・マーケットとかミネソタ・ファッツも…名前だけ気になって何も知らないまま観に行ったバンドでしたね。センチメンタル・シティ・ロマンス、ここも最初はそうでした。気になったから池袋のホーボーズ・コンサートへ行ったんです。そのおかげでシュガーベイブと出会えた。対バンがシュガーだったので…。

D:な〜るほど。

M:昔からライヴへ行くのが好きで…最初は洋楽、ベンチャーズとかブレンダ・リーとかから…。

D:最初に観たのは…森さんの最初は何でした?

M:ベンチャーズです。観たのは。 

D:ビーチボーイズの初来日も体験している森さんですよね。

M:ビーチボーイズが66年で、ベンチャーズは65年…に観たかな。ブレンダ・リーやニュー・クリスティ・ミンストレルとかね、気になるアーティストはどれも観に行ったんですね。当時は安かったんですよ、チケットが。最高値段は2000円近くでも…それがS席として下にA、B、CときてF席ぐらいまであったんですよ。最低価格の席なら600円ぐらいで観られた。そうして洋楽を観ているうちに、日本ではGSの出始め…たとえばビーチボーイズの前座がスパイダースだったり、外タレの前座で日本のバンドを観る機会も多かったから自然とそちらへも興味が湧きましたね。日本のバンドもイイなぁとね。それで…当時はジャズ喫茶というやつですね。

D:ええ、名前だけは…池袋ならドラムとかですよね。

M:うん、ただ池袋は当時はちょっと怖いし (笑)、新宿も歌舞伎町はねぇ…。自然と馴染みの銀座へ足は向くわけですよ。で、いつも行っていたのはACB(アシベ)、中央通りの七丁目で中学生でも入れました。

D:え、中学生でですか?

M:入れましたヨ。ゴールデンカップスとか観て「凄いなぁこれなら外国勢に対抗できる」と思ったりしましたね。でも残念だったのはレコードになると…《長い髪の少女》とか全然違うモノになってましてね (笑)。

D:そうでしょうね。ライヴのダイナミズムがまったくTVで観ると出てなかったんでしょうね。僕もうっすらとGSは記憶あるんです。もちろんTVの中だけの話で。そのあたり、地方の人には分からなかったでしょうね…GSって女の子受けだけを狙ってあんな衣装着ていた程度の認識しか持てなかったでしょうから。どのバンドも元々はストーンズやキンクスなんかに感化されてバンドを始めたけれど、プロでデビューする/バンドをあの時代にやっていくということが否応なしに芸能界に組み込まれてしまう…。

M:オリジナル楽曲があってもシングルとなるとプロの作家の曲をやらざるをえない立場でしたね。スパイダースにしても、かまやつさんの《ノーノーボーイ》や《サマーガール》よりもハマクラさん * の作った曲が大ヒットでした。BBCセッションじゃないけれど、当時のGSのライヴ音源がきっちり残されていたら評価は全然違っていたんじゃないかなぁ。

D:当時のバンドはそれが業界だと思ってなかば諦めていた部分もあるかもしれませんね。まぁライヴでやりたいことはやるからいいよ…とか。

M:GSで印象に残っているのがハプニングス・フォー。

D:ハプニングス・フォー…ですか。

M:TVに出た時は《あなたがほしい》みたいなシングル曲を歌うだけなんだけど…。あの頃、ナベプロ関連の会社だったと思うけど西銀座にメイツというライヴハウスがあったんですよ。それは小さいハコだったけれど、じきに日比谷にちょっと大きめになってやはりメイツというライヴハウスができました…ここがまた学生でも入りやすかった。なのでハプニングス・フォーのライヴ見たさによく通いました。カヴァーが多かった…けれどGSっぽくない部分が良くて…。

D:ある意味〝プログレッシヴ〟だったんじゃないですか?

M:そうそう。エレキギターがいなかった…ギターレスのバンドでね。ヴォーカル/キーボード/ベース/ドラムの編成…アコギはトメ北川さんというヴォーカルの人がときどき弾くぐらいです。

D:エマーソン、レイク&パーマーと一緒 (笑)。

M:一番驚いたのはビートルズの【アビーロード】が出た時、69年ですけど…出てすぐの時にあのB面のメドレーを全部やったんですよ、「出たばっかりなのにもう演ってる!」と…それがすごくイイ思い出なんですね、自分の中で。今それを聴いたらどうなのか分からないけどね… (笑)。

D:ん〜なるほど、かなり衝撃的だったんでしょうね。

M:中学生、高校生がひとりでぽつんと観ていたACBやメイツで、店員はどんな風に僕のことを見ていたのかなんて思いますね、今になって。

D:コアな学生もいるもんだなぁと思ってたんじゃないですか (笑)。でもそれが出来たのが東京ならではですよ。

M:大学に入ってやっと地方出身の人と付き合い始めたじゃないですか。高校までは東京の人間だけの付き合いでしたから…。そこで、彼らと話してみてそんなにライヴは観られなかったとか、映画にしても「あれ観た? 」と聞いても「うちの地域にはその映画は来なかった…」なんてね…それを聞いて初めて東京にいることの特典というか…。

D:それまではそれが当たり前の事で、みんながそうだと思ってましたよね? そうじゃない事はある程度歳がいかないと分からなかった。

M:なので…そう聞いてあらためて東京に住むメリットは使わなきゃと思い始めたんです。たとえば美術展にしても東京でしか観れないモノは多かったりするわけで…。映画に関して言えば、その昔にはこの武蔵小山だけでも映画館が軒と…地元で邦画洋画が楽しめたんですね。映画は子どもの時から十代にわたってよく観ましたねぇ。ただ今では馴染みだった銀座もねぇ…日劇もなくなり、すべては変わりましたけどね。 

D:そうですねぇ。

M:さっき話したように、有楽町で父親が寿司屋をやってたでしょう…高校時代にバイトで結構行ったんです…。出前をやっていたから日劇の楽屋まで寿司を届けたりしたんです、よく。隣の朝日新聞なんかにも。

D:都会の話ですねぇ〜 (笑)。

 

D:ライヴ話なんですけど…70年代の半ばですかねぇライヴハウスが出てきますよね。森さんもそうでしょうけど、僕も結構な数で日本のバンド/アーティスト、生で観てました。でも安かったですよね…お金がかかったという記憶はないんです。外タレはさすがにそれなりに、でしたけど…。

M:ロフトができてね。

D:ツキもあって。というのはさっき森さんが出した名前でボブズ・フィッシュ・マーケットですけど…それとオレンジ・カウンティ・ブラザースのマネージャーだったのが、このトークも乗せるウェブサイトの1発目…森田純一 * といってライターやってる先輩だったので気軽にロフトとかのギグを覗けたんですヨ。みんな年上の人ばかりでしたけど、金魚のフンみたいにくっ付いて東京ロック、遠巻きに観ていられたのはラッキーですね。

M:久保田麻琴&夕焼け楽団とボブズって…ボブズが弟バンド的なところがありましたね。

D:オレンジのペダルプレイヤーだった谷口さん * 、やっぱりウェブでトークセッションしてもらってますが、谷口さんが夕焼けのステージに参加とかも…まぁアメリカンロック/カントリーロック・サーキットみたいに繋がってましたね。

M:ボブズのヴォーカルの敦賀さん…ご兄弟で、レコードデビューした時は弟さんが歌っていてお兄さんがいなかったみたいだけど、ライヴではお兄さんも出てましたね。実はそのお兄さんの方の敦賀さんが…僕が新宿のディスクユニオンに入った時の店長です。誘われて一緒に行ったのがボブズ・フィッシュ・マーケットを最初に観た時でした。飲みながら観ていたら「俺も1曲歌うぞ」なんて言ってステージに上がって弟さんと一緒に歌ったりしてね。 

D:ボブズといえばベースを弾いていた吉田さんが今年に入って下北沢でライヴのできる店 * を始めました。

M:東京では地代が高いからライヴハウスは大変だけれど頑張ってほしいですね。

D:そういえば森さんのところは下に石川さんの店「アゲイン」* …大家さんということでしょう?

M:うん、まぁ一緒に頑張っていこうということで始めました。日本では音楽をやっていくことが税制的になにも優遇されないんで厳しいですよ。たとえばスポーツ界や落語など芸能界からは国会議員が出るでしょう…そうするとその方面は充実しますね。ところが音楽家はまず議員にならないから…。音楽振興ということに目が向かない。

D:外圧がないと駄目なんじゃないですかねぇ。外国が〝日本の今の音楽ってクールじゃん〟とか言い出したらニュースにもなるだろうし…。

M:映画なんかでも外国が評価したというと凄く大きな話題になるのに国内だけでは評価されないというのは寂しいですね。

D:欧米偏重というか、コンプレックスというか…情けなくもありますね。けれど北野武なんか意識的に海外評価を狙っていてその効果で日本でのヒットに結びつけようとしている感がありますよね、そういう風な狙いもアリかも…。

 

 

 

 

 

 

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