|酒冨デザインhomepage|
Smarks
D's Talk session #17 with 和佐田達彦
売れたり売れなかったり… So What ?

Page 1 < > page 2

【和佐田 達彦】wasada tatshuhiko
facewasada1
※Denny's voice
今野政司:D's Talk session #11

D (以下 Denny):すっかりご無沙汰でした。

W (以下 和佐田):お元気ですか?

D:ハイハイ。ところで…知り合ったきっかけは何だったっけ?

W:考えてみたんですけど…今野 * さん、その繋がりですねぇ。よく飲みにつれくださってたんです。そこで最初お兄さんを紹介してもらった…ですよね。

D:そうだそうだ。今野さんとはオレは今でも仕事してるんだよね。

W:あ〜そうですか、よろしく云ってください。

D:はいな。あの当時は… TOPS として東京へ来ていた?

W:いや、東京へ来て TOPS になったんです。向こう(京都)では Itachi 、生き物の「いたち」ですねぇ、そういうバンド名だったんです。東京へ出てきて、「お前たち、そんな名前で売れると思うのか!? 」と云われて… (笑)。それでみんなで考えて…。

D:ん、ちょっと待ってね、最初から聞かせてもらいましょう。え〜と、ウェブを見せてもらったけれど、1959年の生まれだよね。

W:ええ。

D:京都?

W:うん、京都生まれ京都育ちで。 

D:高校が甲子園の常連の平安高校…。

W:ですね。いまは龍谷大付属平安と替わってますけど。

D:高校出てから音楽一直線?

W:いや、そうじゃないンですよ。俺はどうしても大学へ行きたかったんですけど…。なのに大学のほうで来んでええワと (笑)。

D:思いが通じなかった (笑)。

W:大学諦めて…じゃ何しようかと…、それで音楽の道を…。

D:なるほど。バンド活動はしていたんだ?

W:いや、楽器はぜんぜんイジってなかったんですよ。その前の、高校1年の時に応援団部員だった仲間のひとりが「バンドやらへんか? 」と声かけてきたんです。文化祭でバンドやったら女にもてるゾ…言われてすっかりその気になりまして (笑)。男子校だったんですけど文化祭の時だけ女子が観に来るんですよ。

D:高校生らしい真っ当な考えだねぇ (笑)。

W:それまで家にガットギターぐらいありましたけど…。そこで急にベースをやれと云われて、まったく触ったこともなかったんです、ベースって。ベースは何をしたらいいのか、どう弾く楽器かもチンプンカンプンでした。それでもこの曲をやるからと云われて…テープ渡されて2週間後が文化祭でした (笑)。まあコピーですよね、そのために何度も聴いて低いほうの音だけ拾ったんです。

D:楽器はどうしたの?

W:当時新聞配達してたんですけど、そこのひとつ上の先輩が売ってくれて…それが始めての楽器です。

それで、文化祭の当日になったんですけど、ふたを開けたら男ばかりで…。もうがっかりでね、うるさい客の前で「お前らのために練習したんちゃうぞ!」って思いましたよ (笑)。

その時にOBのバンドも一緒だったんです。4年先輩らのバンドでプロを目指している人たちでした、やっぱり上手いんですよ。ライヴ終了後に、そのバンドのベースの方が自分んところへ来て「君、ベースどんだけやっとんの? 」と云わはったんですよ。あちゃ〜こりゃ怒鳴られるわぁ思いました、ベースをなめとんのかと。でも仕方ないので「1週間です…」と云いました。「2週間前にバンドやる話になって、ベース買って1週間です」と。そうしたら「それが本当やったらお前、天才やぞ」と云われて…びっくりしました。親にも誉められたことなかったから、俺。その言葉はしっかり真に受けたンですけどね (笑)…それでもあまりベースに興味はわかなかったんで演奏はそれきり、ベースも部屋に置いたままだったんですね。それで、話は戻るんですが、大学を諦めた19の時に…あの言葉を思い出しましてね、「そうや、俺はベースの天才やった!」と (笑)。

D:これを活かさない手はない (笑)!

W:よし、この道で生きていこう…と。そのためにどうしたらいいかを悪い頭なりに考えました (笑)。まず最初に必要なのは…プロ仕様の楽器だと!

D:形から入るねぇ〜 (笑)。

W:自分を追い込む意味でも良い楽器を手にせなダメだと思ったんですね。それで楽器屋へ行きまして…。それでも何がしたい、どういうベースを弾きたいも何もないんです…それで楽器屋のお兄ちゃんも困ってね (笑)、最後に「これは入ったばかりでまだプロにもそうは使われてない」と勧められて買ったのが Sting Ray Bass (Music Man) 。

D:プロ楽器ならば当時でも20万ぐらいでしょう、その金は用意していた?

W:いや、兄キが働いていたんで買ってもらって、兄キに月々返してゆくということで2年払いました。それで…それから次に考えたのは…自分なりに調べたんですけど、アメリカのバークリー音楽大学へ行こうと。

D:大きく出たねぇ (笑)。

W:それなら親も納得するでしょうしね。けれど音楽の基礎がまったく無いんで…いくらなんでもそりゃ無茶かなと。その前に日本で…また調べましてね (笑)、東京の音楽の専門学校に留学科コースのあるところがありまして、そこへまず通おうと…。けれどそこへも全国から精鋭が集まるだろうから今のままじゃついて行けない。ならばまず京都で2年間勉強しようと思ったんです。

D:変に計画性があるのね…和佐田君は… (笑)。

W:京都で2年やって留学科コースで2年やってバークリーで4年やって、それで日本に戻ってこようという計画でした。ただアメリカの学校は成績次第で早く卒業できるらしいので、バークリーは頑張って3年で終わらせようとも… (笑)。

D:う〜ん、端からみると「勝手に言ってろ」って感じ? (笑)

W:まあともかくは京都の2年ということで…またまた調べたら、当時ふたつの音楽学校が京都にありました。ひとつはアン・ジャズスクールといって有名なとこで、もうひとつは藤ジャズスクール。規模がぜんぜん違っていてアンのほうは授業料も高い (笑)…、当時のバイト代からしても俺が行けるのは藤のほうだったんです、マン・ツー・マンでやってる小規模なスクールでした。こっちにしたろ、と藤のほうに決めまして。ただそこで、最初の説明を聞いた時にすっかり勘違いしたんですね。「ウチはウッドベースだよ…」と言われたのを何を思ったか「ウチはウッドベース“から”だよ…」と。もう Music Man (bass) を買っちゃってるでしょ、だから最初はウッドでも仕方ない…基礎ができたらエレキを教えてもらえるモンと…。ジャズも別にやりたいわけじゃないですからね。なんで4ビートやってんのやろと思いながらも練習はしましたよ。

D:家ではエレキで練習?

W:いや、安い練習用のウッドベースも買って…。それでね、まあスクールに通いながらなんですけど、友達の伝手でいろいろなバンドで…エレキベースを弾くようになったんです。

D:ほうほう。

W:と言うのも、当時の京都ってベーシストがいないんですよ。仲間内から和佐田がベースやっとるらしいという噂が広まっていろいろ声がかかって…。その時俺はすべてのジャンルの音楽をやってみたかったんですね、それで〝かけ持ち〟を許してもらって複数のバンドでベース弾いたんです。

D:和佐田君自身の音楽趣味はどうだったの? たとえばジェームス・ブラウンに入れ込んでたとか、クリームがやりたかったとか…。

W:いや、ロッドとかストーンズとか当時の流行りモンぐらい聴いてましたけど、それがベースに結びつくわけじゃなくて。ベースは、かつて「天才」といわれたことだけ覚えていて (笑)、これで食っていこうという思いだけで始めたから何を弾きたいというのはナンも無かったんです。

D:う〜ん、普通なら目標というか、たとえばポールのベースはやっぱり画期的とか…ベースの魅力で楽器を弾き始めるんだろうけど、そうじゃないアプローチってのは逆に斬新だよねぇ。

W:その意味では普通よりも弾き始めが遅いでしょ。中学高校から普通弾き始めるじゃないですか。5年ぐらいハンディがあると感じたんですけど…でも俺は大学行かなかったことをプラスにしようと思ったんです、自分はそのハンディ分を大学で勉強してる奴らよりも練習で取り戻してやるとね。時間は十分あるゾと、いい風に考えましたね。2年でまずは京都で一番のベーシストと言われるようになろうと…。

D:上昇志向なのか何なのか…まあガッツはあったのねぇ〜 (笑)。

W:これがやりたいってのは無いんですから、なんでもやってやろう…でした。当時はフュージョンのブームだったんでそういうバンドと、ジャズの4ビートも…ウェストコースト系のとか…(スクールの)先生に隠れてエレキを、いやね、エレキベース弾くには先生の許可がいるもんだと思い込んでて (笑)…それと東京へ出てくる足がかりになったバンドも入りましたね。8バンドをかけ持ちしてました。

そんな状況だったんですが、もともと興味ないウッドベースはちっとも進歩しなくて…先生から君はヤル気があるんか? と聞かれました (笑)。そこで、実はエレキを弾きたいんですけどいつになったらやれますか? と逆に聞いたら…「はぁ〜? 」と (笑)。結局先生にはいろいろと話を聞いてもらえて、この後の東京行ってアメリカのバークリー行って日本に27歳で帰ってきて…計画も話したんです。そうしたら「じゃあ帰ってきて何すんの? 」と…。

D:聞くわナァ…。

W:当時流行ってたんで「スタジオ・ミュージシャン」になりたいですと言うたんですヨ。その答えが、それはアメリカ帰りだから仕事がもらえるという世界ちゃうゾ、と。それやったら日本で頑張ったほうがいいと言われましてね。日本でいろんな経験を積んで人の繋がりを築いたほうが早道やとね。浅はかな考えを否定されたんですけど、それももっともやなあと…初めて大人の意見を聞かされたというか (笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

Page 2へ続く