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D's Talk session #21 with 洪栄龍
“伝説のギタリスト”

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【洪栄龍】koh eiryu
※Denny's voice
パワーハウス:69年LP「パワーハウス登場」を発表した日本初の本格派ブルースロックバンド_陳信輝(gtr)/柳ジョージ(b)/野木信一(dr)/竹村英司(vo
ブラインド・レモン・ジェファーソン:テキサスに生まれ、シカゴで没したブルースシンガー_モダン・ブルースの巨人のひとり
乱魔堂:洪栄龍(g,vo)/松吉久雄(vo)/矢島敏郎(ds)/猿山幸夫(b)がメンバーで、後にサンチメンタルシティロマンスを結成する告井延隆がサポート参加_

D(以下 Denny):ヨロシクお願いします。まず洪さんにまつわる情報の確認をさせてください。お生まれは1947年、世田谷ですか?

K (以下 洪栄龍):はい、上野毛です。

D:お父さんが台湾から来られた方で、中華料理店を経営されていたとか?

K:他にも店を経営していましたが、私が中学の頃は、確かに品川で中華料理店をやってました。

D:これは素人の勝手な想像だったんですが、洪 栄龍というお名前を最初目にした時に、中華系でありギタリストであり…どうしても「横浜のロック」=エディ藩/陳 信輝/李 世福などの方達と近く、同じ場所にいらしたんじゃないかと思っていたんです。今お聞きすると、洪さんはあくまで東京の方で、横浜とは無関係であったと…?

K:育ったのは品川ですが、中学・高校が横浜なんです。日大付属中学から日大高校まで。学生の頃、私と同学年に竹村という男がいて、パワーハウス * の前身のベベズというバンドのヴォーカルでした。彼は横浜で活動していましたが、口をきいたことはなかったですね。

D:竹村さんというのは、チー坊と呼ばれているハマのロックの…。

K:そうです。中学高校時代はロックは不良の音楽で、やってることがバレるだけ停学でしたからね、僕は隠れてギターの練習してました。大学に入ると学園紛争の時代、もうバリケードで入れもしない…ならばと決心して、家出してバンド稼業へ入るわけです。それならやはり横浜だろうと。そこで組んだのがビッキーズというバンドです。日大付属高校の仲間で…。たまたまですが、ベースが沖津といいまして、GSのジャガーズの沖津久幸さんの弟だったんです。

D:なるほど。それでビッキーズはジャガーズ・ジュニア=弟バンドと言われたわけですね。その認識は正しいですか?

K:まあそうですね。ただいつもべったり一緒にいたわけじゃなくて、たまに「お前ら前座でやれよ」とか言われて演奏したとか…。後付けでジャガーズ・ジュニアとは言われているけれど、自分らでジャガーズ・ジュニアなんて名乗ったことは一度もなかったですね。

D:そうだったんですか。では、ビッキーズの活動拠点は横浜だったのですね。

K:そう、ビッキーズでの活動は横浜がメインで、土日は東京。まだ“ディスコ”じゃない、生バンドが入ってお客さんが踊る“ゴーゴークラブ”の時代。

当時、横浜にはレッドシューズ、ワシントンスクエア、リバーサイド…四つ五つ有名なハコがあって。そこでは、船で横浜の港に入ってくるアメリカの最新シングル曲を…それこそ昼に聴かされて、夜のステージで演奏できなければそのバンドは失格。そんな即応性を要求された時代です。40分ステージ6回が基本。東京の場合、土日に新宿/六本木/赤坂の三箇所を廻る…六本木は、後藤花屋の上にマンダリンというゴーゴークラブがあってレギュラーで演奏してましたね。

D:そういう場所では、当時ならゴールデンカップスなり…横浜バンドと一緒になったんじゃないですか?

K:一切無し。横浜には横浜の輪があって、僕たちは東京からでしょ…東京者は田舎モンとして彼らは避けてたのね。けれど僕はこのとおり中華系の名前だから田舎モン扱いはされなかった。ベベズのベースが…柳ジョージ、彼とは話をしたことがありました。

D:竹田(和夫)さんは…洪さんとツインリードだったんですか?

K:いやそれは後です。僕が初代のギタリストだったんだけど、稼業を継がなきゃならなくなってバンドを抜けて家に戻ったんですが、でもやっぱり気の抜けたコーラみたいになっちゃって身が入らない… (笑)。

D:それで、バンドへ戻ったんですか。竹田さんは洪さんの抜けていた間に加入したわけですね?

K:そうです、それでツインに…。ビッキーズの活動のピークは、TVの『R&B天国』で勝ち抜いたときかな。その頃はいい意味で個人主義でね、バンド活動といってもかなり流動的。いわば…「来る者は拒まず 去る者は追わず」。

D:ビッキーズのヴォーカルは布谷文夫さんですよねぇ。何時頃、知り合われたのですか?

K:そうそう。でもどうして出会ったのかよく覚えてない…。布谷さんのアパートには何人か居候がいてね…僕も何度か行きましたよ。布谷文夫という人は、日本のジョン・メイオールの様な人で、日本の音楽シーンのなかの、ある種リーダー的なところがありましたね。

D:ビッキーズ後に、布谷さんは竹田和夫さんとともにブルースクリエーションとなりますよね。大半がブルースカヴァーだったファーストを発表後に、布谷さんは抜けて DEW を結成となるわけですが、そこで再び洪さんが参加、布谷さんとともに活動ですね?

K:DEW は、ドサ周りというか東北からず〜っと…トラベリングバンドだったのね。僕は最初関係無かった。けれど予定していたギタリストが行けなくなって、それで声がかかったから結局そのまま廻るはめになってね。

D:その最初のギタリスト候補だったのが、ファーラウト頭脳警察のギターになった左右栄一さん…?

K:そうです。

D:DEW 前に洪さんは、自身のバンド=ブラインド・レモン・ジェファーソン * をやっていたんですよねぇ?

K:ごりごりのシカゴブルースを追究したくて。正式には Blind Lemon Jefferson Blues Band in Southside, Chicago .... 。行ったこともないのに「シカゴでもサウスサイドじゃなきゃ意味ねェんだよ」…そこまで拘っていたんですね。 これちょっと見てみて…(と言って、パソコンでモノクロ写真を何枚か開く)。写真家の野上さんという人からうちのマネージャに許諾の連絡が入った写真…。

(それはエピフォン・ギターを弾く、長髪の洪さんのステージ姿:野上さんとは、はっぴいえんどファミリーとも言うべき野上真宏さんだろう)

これ、ブラインド・レモン・ジェファーソン時代なんだ。

D:ブラインド・レモン・ジェファーソンにはメンバーとして、後に風都市に加わる上村律夫さんがいたんですね? で、洪さんはヘルプのはずがDEW へ正式加入みたいになって旅を続けた…。

K:そう。

D:そこから乱魔堂 * への経緯はどうだったんですか?

K:DEW で廻っている時に同時にもうひとつ13M(サーティ-ンエム)というバンドがあったんです。そこには乱魔堂のヴォーカルになる松吉とか…皆知り合いで。旅が終わってどっちのバンドも解散となったときに、じゃあ一緒にやってみようかと…。

 乱魔堂になってからも岐阜でハコバンやって、そこから京都へ流れてそこでもハコバンをやっていたんです。ゴーゴークラブなので相変わらず40分数回ステージだったんだけど、時代かなぁ…空き時間にオリジナルも作り始めたのね。その時に、つのだひろからなぜか連絡が入った…。ひろとは東京で知り合っていたからだけど、「京都の京大西部講堂でフライドエッグのライヴがあるけれど前座がいないからやらないか」と誘われて。それで、乱魔堂/豊田勇造/フライドエッグというラインナップになったんです。最初の出番が僕らだったけど、演奏始めてもシーンとしてるのね (笑)、それでもかまわず続けて終わった時、最後にぐわーっと歓声が来た。その時、ひろから「東京へ帰ったほうがいいよ」と言われて…メンバーで話し合って帰ることにしたんだけど、他のメンバーは帰る場所があったけど、僕だけ家出しているからないのね。そこで行った先が渋谷のBYG…。

D:なんでBYGだったんですか?

K:BYGでのギグがブッキングされていたからです。

D:それは上村律夫さんによって?

K:そうだね。

D:その頃、上村さんは既にマネージャだったわけですか?

K:いや、まだそうじゃなかったな。

D:風都市としてのブッキングでは無かった?

K:風都市には、まだ入ってない。

D:じゃあ上村さんは、ただ知り合いのバンドをBYGをブッキングしただけ? 

K:う〜ん、何だったんだろうねえ。ただ風都市は既にあって、上村はそのスタッフだったんだな。BYGのブッキングを風都市が仕切っていたから振ってきたことだろうね。それで僕はBYGで、スタッフが帰るまで隠れて待ってて…帰ったあとに椅子を寄せて寝ていた (笑)。

D:なるほど…そこら辺からBYGを拠点にしてバンド活動となったわけですね。

K:71年に中津川のフォークジャンボリーに出た時は、上村はマネージャになってます。…BYGでは大音量で演っていて、観客が引くほど (笑)。

 

 

 

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