D(以下 Denny):どこから始めようかな…。まず佐野さんとの出会いからいきますか。
S(以下 佐野):え〜と…『漫画の手帖』* …じゃなくて『Vanda』* で?
D:いや、「M&M」* …だよね。オレは池袋の産まれでオンステ * の常連、スタッフみたいな顔したずうずうしい客だった。ある時、店で見た新譜CDが【complete of California Music】。ビーチボーイズ好きとしては押さえておきたいブルース&テリー音源なんでね、手に取ったら選曲もジャケもすごく好みで…。店の佐藤君に聞いたら、日本のインディーレーベル制作というから凄く驚いたわけ。ジャケもいいと思って、聞けば佐藤君はそのデザイナーを知っているという_なので電話番号をその場で聞いて、翌日に連絡してみたんだ。それって大嶽さん * ね。すぐに、当時下北沢だった大嶽さん宅へ伺ったんだよね。意気投合して…。その時に、M&Mというレーベルが立ち上がって手伝っている_実は次作はブライアン・ウィルソンのレア音源コンピで、そのジャケも頼まれているけれどそれ、奥山さん、やらない? なんて話になってさ。もちろんブライアンフリークの自負はあったから是非やらせて欲しいと言ったんだ。それで、レーベル主宰のTさんを紹介してもらって話は決まり。ライナーノーツは、 California Music 盤と同様で佐野さんだったよね。そのデザインのためにTさんが間に入って紹介してもらったのが最初だったと思う。
S:あ、そうでしたっけ? ならあのCD(『レア・ワークス・オブ・ブライアン・ウィルソン/still I dream of you』)は奥山さんのデザイン?
D:そうそう。副題もオレが考えた_未発表曲だった "still I dream of it" にかけてね。レコ番号も連番を外して "409" にしてもらったり (笑)、やり放題。
S:ということは会ったのはM&Mの、上馬の事務所ですね。
D:…だったと思う。その時に「Vanda、知ってますヨ、達郎インタビューの号(第3号)を持ってるから…」なんてことも言ったよね。
S:そうかTさんがらみ、でね。でも奥山さんとはそれほど会ってはいないですよね。私は勤め人だし…。
D:そうだね、メール…の時代じゃないから基本は電話でだったかな。それにしてもM&Mはいろいろあったよね、まあ隣接権CDってことであちこちから叩かれた (笑)。
S:同じように隣接権でCDを出していた音楽業界の大物もいたんですよ、当時。ダブルスタンダードでしたね、そちらには言及せずに叩きやすいM&MとかA-Side * に鉾先が来てた…。
D:まあそれはともかく、では佐野さんの音楽変遷からうかがいましょうか。
S:父親がクラシック好きで、コンサートへ…まあ情操教育のつもりだったんですかねぇ、連れて行かれたわけですよ。でも退屈で退屈で (笑)。そっちの音楽興味はまったく湧かなかったけれど、ある時TVで見た…寺内タケシ、そのエレキギターという物にすごい衝撃を受けました、まさに体に電流が走るような。こんなにカッコイイものがあるのかと。そんななかである時、レコードプレイヤーのターンテーブルにベンチャーズのシングル "Caravan / Bulldog" が置いてあったんですよ。その "Caravan" が最高でしたね。自分の理想とするロックンロールのビート、スリリングな展開…エレキの魅力が目一杯つまった曲だったから。そういう音楽の趣味は無かった父親がそのシングルだけ買ってきたのは、TVで見た演奏が気に入ったからです。
D:なるほどねぇ、まずはベンチャーズですか。
S:当時、小学生ですけどお小遣いで月に一枚だけシングルを買えた…そのA/B面をひと月聴き続けるわけです。それで、レコード店でベンチャーズのとなりに「ビートルズ」というコーナーがあって…どうやら世間ではこっちのほうが有名、人気のバンドということになっているらしい、それで試しにコンパクト盤を買ってみたんです。
D:4曲入りのEPだね。
S:買ってきて最初に聴いた時は、「歌もの」じゃないですか、それまでエレキ大好きでしたからちょっと分からなかった。それでも何度も聴いているうちに…「やっぱオレこっちのほうがイイわ」、ひと月後にはベンチャーズが過去のものになって (笑)。どっぷりビートルズにハマりましたね。その後もレコード店通いは続くんですが、「信頼の東芝マーク」が付いている別のバンドにも気がつくわけです。ベンチャーズ/ビートルズと同じですからね。それがビーチボーイズで…。試しに買ってみたら「これもイイじゃないか!」と。
D:じゃあ最初にビーチボーイズを買ったのが、小学校の…?
S:六年ですね。
D:何年だろう?
S:1969年です。買ったのはEP二枚組で『ビーチボーイズ・ベスト8』とかいうヤツだったかな。
D:その時のビーチボーイズというのは、既にバンドとして知っていた?
S:いやそれはないですね、レコード店で見て買った。ほとんど「賭け」です。
D:オレは三歳上の兄キがいるから、GSのシングルあたりからビートルズ/ストーンズとかのシングルは既に家にあったし、ミュージックライフも69年には見ていたかな。名前だけでビーチボーイズは知っていた。でもマジに入れ込むのはずっと後だけどね。
S:中学になってLPが買えるだけの小遣いがもらえるようになったんだけど、当時ビーチボーイズのLP…最新盤【sunflower】、それと【friends】と【20/20】の3枚しか無くて他はすべて廃盤だったんですよ。ならば最新盤が欲しいですよね、それで【sunflower】を買ってみたら…日本(編集)盤だから1曲目に "cottonfields" ですよ。これが最高でね、素晴らしいハーモニーじゃないかと…。ある意味ついてましたね、もし最初の盤が【20/20】だったらビーチボーイズ入れ込みはなかったかもしれない (笑)。
D:その時に、コーラス/ハーモニーに感動したってのは何だったんだろう? 親譲りのクラシック素養とか? 当時ならばもっとロックらしいサウンド、たとえば既にツェッペリンとか出てきたわけじゃない。ロバート・プラントの高音ヴォーカルとかポール・ロジャースの渋いブルース声のほうが「ロック」の時代だよね。
S:う〜ん、すべてじゃないですよ…ロックらしいリフ中心の曲ってのも大好きなんです。けれどやっぱりビートが利いていてメロディーがきれいでハーモニーがしっかりした曲はずっと好きでしたね。最近のことなんですけど、友人から「お前のビートルズベストソング20を教えてくれ」とメールがあって、それに答えたんですけど、1位に選んだのは "hello goodbye" _自分にとっての理想の1曲がこれだという思いはいまだに変わりませんね。その流れでもないけど、中学当時は〝プログレ〟にもかなりハマっていたなぁ_ピンクフロイドやムーディーブルース、イエスの盤など色々買ったしライヴもほとんど観に行った…。ピンクフロイドを観たときに新曲としてやったのが、後でレコードで聴いてわかったんですけど「狂気」だったんです_けれどレコードはそのライヴの音とは違っていた…ライヴでは原形というか、録音前の演奏ですからね、その違いに驚きましたね。
まあいろいろと聴いていたけれどやっぱり一番拘ったのはビーチボーイズですね。オリジナルタイトルはまだ廃盤でしたけど、【dance dance dance】とか【fun fun fun】とか変なタイトルの廉価盤だけがぽつぽつ出てたんですよ。それって正規のより1〜2曲少ないことに気付くわけですよ。
D:それ、Capitol Reissue だよね…2曲づつオミットして、そのオミット曲だけを集めた編集盤も出してた、水増し盤だよ (笑)。【be true to your school】がタイトルの盤なんかオレ、買ったな。
S:ネットなんか無い時代だからちゃんとしたディスコグラフィがどこにもなくて…分からないですよ、過去に何が出ていたのかが。Vanda という雑誌を始めてからの一番の拘りはディスコグラフィなんです。三つ子の魂というか…パーフェクトに聴くために何より正確なディスコグラフィが欲しいという思い、それって小学生のときからずっとですね… (笑)。当時、近くのレコード店にストックしてあった「レコードマンスリー」という小冊子のバックナンバーを覗きに、ベンチャーズのシングルのAB面やレコード番号を控えるために毎日行ってましたよ。もう邪魔だから来るなといわれた (笑)。
D:あぁなるほどなぁ…記録マニア的なところね、それはオレもかなりあったし、いや、今でもそうよ (笑)。中学時代はまずラジオ各局のポップス番組のベスト10をノートに書いていたし、その後はもっぱら「クレジット買い」。特にバックミュージシャンに拘った…今でもブログに書いているのはそんなことばかりなんだけど。
S:当時に欠かさず回っていたのが、渋谷のヤマハ、ディスクユニオンのお茶の水店と横浜店へよく行っていて…それと新宿レコード。当時新宿レコードに山崎さんという人がいて、その人がすごくビーチボーイズフリークだったんですよ。だから意外なアイテムがけっこうあったりして…いろいろと話を聞くようになりましたね。
D:そういうことあるよね。オレの場合は、飯田充さん…知ってるかなぁ、西海岸のロックに滅法強い人で文章も書いていた…飯田さんは上野の蓄晃堂から原宿でメロディハウス〜フリークアレイと店を移った人でね、ある時期から話をするようになって、やはりビーチボーイズのことをいろいろと教えてもらった。Duosonic 盤のこととか、ステレオテイクの存在しない曲とか…。
S:いくつぐらいの時に?
D:ハタチ前後だったかな。
S:ワタシの場合は中学生だったんで、山崎さんもよく子どもの相手をしてくれたもんかなと…。
まあそんなこんなで、いろいろな物を聴いていたんですけど、プログレは廃れてツェッペリンとかもどうも初期の良さが無くなり…なんだか聴く物がなくなってきたんですね。それですっぱりやめてしまったんです、音楽を聴くことを。1975年から5年間ぐらい。その間はマンガのほうに行ったというか、ミニコミを作ったり…そっちのほうが面白かったんです。
D:佐野さんのミニコミ歴は音楽の前にマンガだったよね。
S:1979年のことですが、山下達郎がコカコーラCMのジングルをアカペラでやったんですね。これをTVで聴いた時に、誰だかその時は知らなかったんですがすごく気持良かった…まさにビーチボーイズばりのオープンハーモニーじゃないですか、そうだオレってビーチボーイズが大好きだったんだよなぁと思い出したんですよ。そこで久々にレコード店へ行ってみたら、かつて何も買えなかったビーチボーイズのカタログがすべて出ているんですよね。今考えれば、アメリカで【endless summer】が当たってのリバイバルブーム、それで日本でも出ていたわけですけど。まあいっぺんにカタログが揃って、聴きまくっていましたね。そうしたら友人のひとりが、ビーチボーイズが好きならコレも聴いてみろと…それが山下達郎と大滝詠一、1980年ですよ、【for you】と【ロングヴァケイション】が最新盤でそれを聴いてビックリしましたね、日本人でもここまでやれるんだと。洋楽に負けないというか、それ以上のクオリティじゃないですか…一気にハマりましたよ。そこらからまた音楽の世界に戻ったんです。だから、ワタシにとっての大瀧は「ロンバケ」以降なんです、よくそれ以前のノベルティっぽい大瀧音楽こそ真骨頂という意見がありますけど…。
D:ああそこね、前にも大嶽さんとのトークで…オレや大嶽さんはその「ロンバケ前」だって話をしたんだ。オレははっぴいえんどのデビューからレコード聴いてるしライヴも観てる。山下達郎なら【アドサム】盤 * のアマチュア時代から聴いてるヨ〜 (笑)。
S:それはすごいですねぇ。どういうことで?
D:達郎らの仲間でその盤のジャケを描いた金子辰也さんが、たまたま同じ町に住む知り合いだったというだけ…。
S:なるほどね…。で、音楽に戻りながらもマンガのミニコミは続けていて、その中に1〜2ページは音楽ネタにしていたんですね。そのうちに音楽のほうをきっちり書きたくなって Vanda を始めたんです。それでもまだまだマンガ関係が断然知り合いが多かったのでマンガのことも書きながら、音楽好きなマンガの人脈に音楽ネタも頼んでいましたね。
その頃に週に一度は行っていたかなぁ、よく行ったレコード店が横浜の Back to the Rock という店…神谷さんという人がやってて…スペクターやブルース&テリーのシングルとか、かなりマニアックな盤があったんですね。そこでミニコミ= Rave On というのを出す事になって神谷さんから、佐野君も書いてくれない?と頼まれてブルース・ジョンストンやビーチ・ボーイズのレアマスターズとか、書いたんです。それを見たのが宮治淳一さんで、一度会おうということで連絡があって、それで知り合います。
宮治さんには Vanda でも書いてもらうことになって、いろいろ話をしている時に、ワタシが山下達郎のインタビューなんができたらいいね…と言ったら、宮治さんはすごく達郎さんと仲がいい人だったんですよ。それでインタビューをコーディネイトしてもらいました、Vanda の第3号はそのインタビューを載せることができました。そのインタビューの際に、知り合いで筋金入りの達郎ファンの漫画家も誘って行ったんです。それがとりみきです。そこで意気投合してとりさんと達郎さんとの付き合いはずっと続いてますよね、CDジャケットを手がけたりもしているし…。そのインタビューはすごく達郎さんが乗ってくれて、記事も気に入ってくれましてね、ライヴのMCで「いろいろインタビューを受けてきたけれど、Vanda というミニコミ誌のインタビューは今までで一番いい出来」と紹介までしてくれたんです…。
【140520 世田谷・佐野氏宅】
今回はここまで_ソフトロックの核心は次回、乞うご期待