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“Dig the Muscle”

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Rare Muscle Shoals recordings
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Buzzy Linhart

『マッスルショールズ』は個人的に積年の重要課題となっている。しかし、これから書くことはあたかも講釈師…一度も訪れたことのないマッスルの地を見てきたように書くし、推測/憶測多々あり、けして他所で話さないように(笑われますゾ…)。

 

アメリカ南部音楽好きには言わずと知れた〝マッスルショールズ〟なのだが…。

そのマッスルショールズとは何のことか? まずこれが問題です。かなり人によってとらえ方が異なる…と思えるから。

1:アラバマ州マッスルショールズという地名

2:60年代のブラック盤を中心としたレコード群(第一次ブーム?)

3:70年代、Muscle Shoals Sound Studios 録音を中心としたロック中心のレコード群(第二次か)

 

まず(1)とすると、この地で録音されたすべての盤、60年代から現在までの盤をすべて含むことになる。

(2)(3)は世代的に別れるだろう。現在50代の後半世代ならば、アレサ・フランクリン/ウィルソン・ピケット/アーサー・コンレイ/エタ・ジェイムスあたりの盤、ようするに FAME Studio での録音盤ですな…それが(2)。

そして(3)、ワタシはリアルタイムとして完全にここがツボ。「マッスル堀り」はちょっと人に負けにない自負があるが正直、フェイム盤はほとんどスルーしている、興味がない。ワタシにとってのマッスルとは四人衆によるマッスル(ショールズ・サウンド・スタジオ)録音盤となるのだ。

 

しかしまずフェイムから revisited...。

マッスル話の重要人物にはクィン・アイヴィ/ジェリー・ウェクスラー/四人衆( = Swampers)などがいるが、外せないのがこの名前…リック・ホール Rick Hall 。

ナッシュヴィルで音楽修業を終えたホールが地元へ戻って、仲間と共同でスタジオを始めたのは50年代末のこと。場所はアラバマ州フローレンス。ドラッグストアの二階に作った、2トラックレコーダーしかなかった小さなスタジオは Florence Alabama Music Enterprise 、略して FAME と名乗る。

しか〜し、野心家であったホールはほどなく仲間と別れてひとりで新たなスタジオ(音楽出版社を兼ねる)を同名 FAME として、フローレンスからはテネシー川向こうの地マッスルショールズに建てて再出発する。場所はマッスルの目抜き通り Avaron ave. と Woodward ave. の交差点角。繁華な場所だ。

ナッシュヴィルでの知り合いだった著名プロデューサー Felton Jarvis がここへ Tommy Roe を連れてきて "Everybody" (全米3位)を録音したのは 1963-7-19 の事。徐々に仕事は増えていった。

そのフェイムスタジオにとっての追い風は意外なところから吹いてきた。

マッスルショールズの地は、北にナッシュヴィル/西にメンフィス…音楽産業として悪くない地であったらしく、フェイムのみならずいくつかのスタジオは当時から存在し、そこそこの活況を呈していたようだ。

トミー・ロウこそ白人だが、基本はブラックアーティストの録音がマッスルの基本であったと想像する。まあ、ローカルシングルの制作が一番の目的であっただろう。その意味では『黒人のナッシュヴィル』であったかもしれない。

追い風は…(1)の代表曲ともいえそう、フェイムでもマッスル(スタジオ)でもないマッスル録音曲。

地元のDJでソングライターでもあったクィン・アイヴィ Quin Ivy は、曲をホールに採り上げられていた。そのアイヴィは65年に自身のスタジオ Quinvy recording を作り、アラバマ生まれのシンガーに自作を歌わせた。そのシングルは、もともとホールがニューヨークのアトランティックレーベルと既にコンタクトを持っていた縁でそれを紹介してリリースされた。

見事全米1位にして、アトランティック・レーベルとして最初のミリオンシングルとなった…いまではスタンダードの域でしょう、<パーシー・スレッジ/When a man loves a woman>「男が女を愛する時」。produced by Quin Ivy and Marlin Greene 。

(…と思っていたが Wikiによれば、録音はクィンヴィスタジオでない! Norala Sound Studio というやはりマッスルのスタジオとある。それとライタークレジットも、実際はスレッジが作ったのに仲間二人へ変えた=名義を与えた、とある。たぶんスレッジは、大ヒットなどと夢にも思わずに小遣い銭程度の印税ならば仲が良い友人へと気遣ったのだろう:再度チェックしてみると Norala Sound Studio とはアイヴィの持ちスタジオらしい。 Quinvy studio を何かの理由で別表記したのでは?

 

<男が女を愛する時>の大ヒットで俄然マッスルの地が全米から注目された…とは思えない。そのヒットを聴いていた/シングルを買った人たちは、それがどこで録音されたかなど気に停めることは無かったはず。が、業界関係者は別。注目したのはNYにいたアトランティックのジェリー・ウェクスラー Jerry Wexler。

ここでふたたびホールのフェイム。ウェクスラーはそのヒットを生んだアイヴィのスタジオではなく、ホールの FAME で録音開始(機材的にクィンヴィではあまりにお粗末だったんじゃないか…)。黒人アーティストと共にこの地へやってくる。

なかで、やっぱりウィルソン・ピケット&アレサだろう…このウェクス・プロデュースによる二大ヒットレコードが(業界的に)「マッスル、ここにあり」と知らしめたことと思える。

ここまではブラック中心の60年代マッスルレコーディング話。

 

リック・ホールという人は基本的に吝嗇だったのだろう。フェイムスタジオのハウスバンド = Fame Gang 、第一期のデヴィッド・ブリッグズ/ノーバート・プットナム/ジェリー・キャリガンらとギャランティでモメて、結果彼らはナッシュヴィルへと…。しかたなく集め直しの二期にはスプーナー・オールダム/ジュニア・ロウ/ロジャー・ホーキンス/ジミー・ジョンソンらが。

しかしまたまたモメた? 結果は四人衆の独立となるのだが…。

ウェクスラーの仕切り盤で、自分のスタジオを使ってもらえて本人もエンジニアとして参加…ホールとしては金が入っていくるのはヨシとしても、録音の内容にはさほど感心なかったのではないか。もともとナッシュヴィル上がりの人だし、フェイムも「白人録音で成功」したかった/ポピュラー寄りな音楽で儲けたかったのでは…。

それを薄々感じていたウェクスラー? ならば、より思うままに使えるスタジオをホールと手を切ってこの地で別に作れないか…そう思っても不思議はない。

ギャラでブーたれていたスタジオのメンバーに声をかける…「ホールと手を切って別スタジオをやらへんか?」「資金なら心配せんでエエよ、俺が貸したるさかい…」。別に大阪人になったわけじゃなかろうが…。声をかけたとすると、まずジミー・ジョンソンでしょうなあ。この人、ギター弾くよりも卓(ミキシングボード)いじりのほうが好きなタチだから。ひとりではどうもならんと仲間ウチに声をかけて、もとからホールのしぶちんに不満顔だった四人が結集。

この四人をワタシは『マッスル四人衆』と呼ぶ。

Jimmy Johnson / Barry Beckett / David Hood / Roger Hawkins

世に知られた Muscle Shoals Rhythm Section とはこの四人衆なり! 別名 "Swampers" …。

フッドはどうだったろう…他三人はプロデュース名義盤あり。ワタシの印象ではギターのジョンソンとキーボードのベケットはプロデューサー業に積極的であって、ベーシスト=フッド/ドラマー=ホーキンスのリズム隊はどちらかといえば演奏が主であったように思う。

 

蛇足:

"Swamper" なる呼称は、レオン・ラッセルが使い出した言葉で世間にはレナード・スキナード楽曲 "Sweet Home Alabama" で広まったとか。

I'm coming home to you / Here I come Alabama Now Muscle Shoals has got the Swampers / And they've been known to pick a song or two.... と歌詞にある。

しかしスキナードはオフィシャルにマッスル録音はなかったはず。それでもこう歌ったのは、MCAでのプロデビュー前のこと…マッスルスタジオで、ジミー・ジョンソンによってデモ録音を行った過去があるから。そのテープの仕上がりに亡きロニー・ヴァン・ザントは満足せずにジミーと仲違いしていた。が、後にそれが晴れて、その意味で作ったのが同曲という次第。

 

ここまで書きながらネットを見ていたら…リック・ホールはこの時期にアトランティックと手を切ってキャピトルと新たな契約をかわしたとあった。となるとウェクスの画策というよりもホールのほうがウェクスを切ったと見るほうが正しいようだ。新スタジオはウェクス(アトランティック)としてはこの地でレコーディングを続けてゆくためには必須であったことになる…。

どうあれ、四人衆は独立を決意。

そのためのポイント…、まず資金はウェクスからの貸与でOK、もうひとつはそのロケーション。結局 3614 Jackson Highway へ落ち着くそのスタジオだが…。

ここは Oakwood Cemetery オークウッド墓地のまん前。もともと棺桶製造所だったらしい。それを67年のこと、Fred Bevis という地元の男が買い取った。Bevis Recording Studio としていたが教会関係者だったらしいフレッドは早々にこの仕事に見切りをつけていた様子。それを知っていたジミー・ジョンソンが話をつけて万事落着。

新スタジオは Muscle Shoals Sound Studios と命名される。

これが面倒の元で…。「マッスル録音」と云った時にゴチャゴチャしてしまうのがこの名前のせいだ。場所なのか、スタジオのことなのか…フェイムは関係ないのか…。

そのネーミングにはウェクスラーの意向がかなりあったようにワタシは思う。マッスル= FAME ではないことをアピールしたかったのでは。時代はもうフェイムではないとホールへ引導を渡したかったんじゃなかろうか。その通りになった訳だが…。

実際にはこのスタジオは「マッスルショールズにない」。正式な住所表記では:

3614 N. Jackson Hwy, Sheffield, Colbert, Alabama 35660

 

 

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