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Muscle Shoals has got the

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Courtland Pickett
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Larry Santos
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Ruben Howell

アラバマ州コルバート郡のシェフィールド地区にあるノース・ジャクソン・ハイウェイ通りなので正確にいえば「ジャクソン・ハイウェイでもない」。その通りは〝北〟ジャクソン・ハイウェイであり、FAME studio のあるウッドワード・アベニュー、これが南へ下ると途中から名称がジャクソン・ハイウェイになるので、スタジオのある「北」通りは別物、別の通りなのだ。

なのでスタジオ名は North Jackson Studio とでもしてくれたほうがよかったと思うが…。

コルバート郡は三地区から形成されている。Tuscumbia / Sheffield / Muscle Shoals 。

マッスル・スタジオの場所はマッスルではなくシェフィールド地区。ちなみに69年にスタジオはオープンし、十年後により広いスタジオへと移動する。もとの場所より北東方向で Alabama ave. にある。スタジオ裏はもうテネシー川という川沿いの場所。ここもシェフィールド地区。

FAME はマッスルショールズにあり、マッスルスタジオはそこにないということ。広義でみればすべて「マッスルショールズ」で問題ないが。あくまで住所の話。

 

マッスルスタジオでの最初の仕事…第一弾は69年6月発売【Cher /3614 Jackson Highway】といわれている。もちろんウェクス・プロデュース (& Tom Dowd)。背景としては、まずシェール(ソニー&シェール)がアトランティック傘下 Atco の所属であったこと。それとダスティ・スプリングフィールドのメンフィス録音の評判がよかったことだろう。ただ、アリ曲ばかりの選曲からしてもやっつけの感は拭えず。チャート的にも160位では成功といえないだろう。この盤で特筆すべきは、ジャケ写真のなかにドナ・ゴッドショーがいること。のちに結婚し、夫キースとともにグレイトフル・デッドで一時期活躍したあのドナ。ここではコーラス参加だが、彼女はマッスル生まれでローカルにシングルも出していた。

もう一枚、69年録音のマッスル(スタジオ)録音といえば/初期マッスルの傑作とされるのは【Boz Scaggs】。これは Fenton Robinson 作の < loan me a dime > 、長尺ブルースナンバーでのデュアン・オールマンのギターが…オールマンズ前、セッション時代のデュアンの代表プレイとして大きく採り上げられることになったが、これもマッスルをややこしくしている。

デュアンは他にもルル盤などマッスルスタジオ録音がないわけではないが、基本 FAME session だった人。しかし「デュアン=マッスル時代」というとこのボズ盤が語られるせいで、あたかもマッスルスタジオのセッションギタリストであったように認識されているのではないか。

 

シェール盤/ボズ盤でのバックメンバーは四人衆にリードギターとして Eddie Hinton 。マッスルスタジオ初期盤の特徴はヒントンとエンジニア(プロデュースもあり)としてマーリン・グリーンが関わっていたことがあげられる。

 

以後のスタジオ録音盤はここでは挙げていかない。それはワタシのサイト「Muscle / Pete Carr archives」を見てもらおう。

http://www.sakatomi.com/PeteCarr

(現在もブログで更新中)Denny_O_Rama

 

マッスルのギタリスト、四人衆のなかのジミー・ジョンソンは名の通りに地味なサイドギタリスト。リードプレイはほとんどなし。その席にはヒントン以外にもウェイン・パーキンス/ティッピー・アームストロング/ケニー・ベルなどもいたが、70年代=マッスルスタジオ絶頂期でもっとも多くのセッションをこなしたのはピート・カーであること、ワタシはそのピートのフリークであることは記しておきたい。

 

ところで、ソウルアーティストによるマッスル(=フェイム)録音盤からロック勢が大挙して〝マッスル詣で〟…時代が変化していったわけだが、そのきっかけとなったのがストーンズ in Muscle 、この影響が大きかったんじゃないだろうか。特に英国勢に。

マッスル(ややこしや。ワタシが使うこの言葉は Muscle Shoals Sound Studiosを指す)録音といって、英アイランド・レコードのアーティストとの関係がかなり深いものがあるのだが、それはストーンズによるこのスタジオでの録音を知ってからのこととワタシは考える。

あの悲劇の『オルタモント・コンサート』が69年12月6日。ストーンズ面々がマッスルを訪れて < brown sugar > < wild horses > < you gotta move > を録音したのが同12月〜4日のこと、直前なのだ。これが FAME ではなくてマッスルスタジオであった。ここから〝ロックなマッスル〟が始まったように思う。

 

最後に挙げたいことはサザン・ベルトのなかのマッスルの位置。

西にメンフィスがあることは記した。Stax や Hi のスタジオ、American Studio / Ardent Studio などがあった。逆にはジョージア州、Capricorn Studio と Studio One の二大スタジオが。そのがフロリダ。ここに Criteria Studio がある。

ナッシュヴィル生まれだが育ちはフロリダだったオールマン兄弟とピート・カーが知り合ったデイトナ・ビーチ。オールマンズの裏方としてカプリコーン・レーベルを支えたジョニー・サンドリンも、レーナード・スキナードもフロリダ出身。レーナードはスタジオ・ワンを録音の拠点にしていた。そこはアトランタ・リズム・セクションのベーススタジオ。

アラバマ/テネシー/ジョージア/フロリダの横の繋がりは… Dixie Pride とでも呼ぶべきなのだろうか。

そこでマッスルスタジオ。マッスルでの録音でもレジー・ヤング/デヴィッド・ブリッグズ/ノーバート・プットナム、ジェイムス・ディッキンソン/マイク・アトリー等々、西や東のメンバーもはせ参じていた。しかし一番の関係はフロリダのクライテリア・スタジオとなる。

マッスル録音した音源の弦(ストリングス録音)は八割方がクライテリアで行われていた。ホーンに関しては、自前で済んだが。( Muscle Shoals horn section はイーズ/ローズ/キャロウェイ/トンプソンの四人) 四人のホーンは録れても、弦を録るほどのスペースがマッスルスタジオにはない。そこでより広い/弦録音が可能なスタジオとしてクライテリアがあり、そのスコアはクライテリアのスタッフであった Mike Lewis が手がけていた。

クライテリアはドミノズを始めとしてクラプトン盤で知られる名スタジオで、もともとジャズトランペッターあがりのマック・エマーマンによって設立。南部に大がかりなセッション可能なスタジオがなかったことから始めたスタジオゆえに弦録りもこなせた場所。

 

マイアミ音楽界の大立者スティーヴ・アレイモ、そのそばで音楽活動していて後にプロデューサーへ転身したのが Brad Shapiro 。シャピロはミニー・ジャクソンのプロデューサーと知られるがその録音も含め、ウェクスラーに次ぐほどマッスルスタジオを贔屓にして白人黒人を問わず多くのレコーディングを行なった。

 

マッスルスタジオは79年に川沿いのより大きなスタジオへと移るが、時代の変化へと対応しきれたとはいえない。その存在は逆に小さくなりローカルなレコーディング(自身でレーベル MSS を興している)が主になってゆく。バリー・ベケットがプロデュースしたディランの〝キリスト教回帰三部作〟うち2作はこのスタジオでの録音。

 

 

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